2006年世界選手権での衝撃、夢はインターナショナルなコーチになること。 保田尭之コーチのスペインでの歩み<1>
GSL(ゴールドスタンダード・ラボ)のFBページで2016年に公開していた記事の再投稿です。2018年5月現在、B2熊本ヴォルターズHCとして奮闘する保田尭之さんはスペインでバスケットボールを学んだ異色の経歴の持ち主。以前よりオフシーズンなどを利用して保田コーチにご協力を頂いて記事を制作していた。本記事では、プロになる前の保田コーチの歩みに迫ります。
2016年6月15日、熊本ヴォルターズに20代半ばの青年HCが誕生した。保田尭之氏、27歳(就任時は26歳)。4月中旬の熊本地震からの復興を目指す熊本ヴォルターズのHCという大役である。就任会見ではチームGMより「熱心にバスケットに取り組む姿勢と、自らヨーロッパに出向き、バスケットの勉強に取り組む高い向上心を持ち合わせているところも、今後に大きな期待を持てる指導者だと感じています」とあるが、球団プロフィールではスペインでの経歴は「2015年7月 Campus Xaraíz(9日間) コーチ(スペイン)」とあるだけで、スペインの地での彼の軌跡を想像するのは難しい。
保田コーチは、学生時代よりスペインの地へ足を運び、スペインのバスケットボールを幅広く、かつ深く学んできたという経験がある。今回、約2シーズン前より保田コーチに協力を頂き、GSL編集部で追いかけてきた保田尭之氏のスペインでの歩みを本記事にてご紹介させて頂きます。
2016-17年シーズンより熊本ヴォルターズのHCに就任した保田尭之(以下、文中では敬称略)は、学生時代よりスペインへ足を運び、現地でバスケットボールを学んだ異色の経歴の持ち主だ。
スペインでは、同国のバスケットボール協会FEBの公認ライセンスである「レベル1」を取得。その他にも、男子1部リーグACBにも所属した事のあるMenorca Básquetでのバスケット留学、女子1部リーグであるPerfumerías Avenidaへも半シーズン帯同した経験を持つ。
スペインへ魅せられ、入念な計画と、思い切った行動を積み上げ、日本国内トップリーグの舞台に辿り着き、HCの大役を任された。日本のプロリーグでは既に4シーズン目の経験を持つが、まだ27歳(記事公開時点)。コーチとしては、これからが本番だ。
復旧支援活動に全てを捧げている保田氏の姿を見て、熊本への想いを人一番持つこの男にチームを任せたいと思い、HCを打診したところから全ては始まりました。
Bリーグ最年少HCながら全国の皆様の想いを一身に担い、重圧の中、最終戦までプレーオフ進出争いを繰り広げた指揮官に心より感謝します。 https://t.co/aaMofK5VCq— 西井辰朗 (@tatsuro241) 2017年5月8日
西井GMが語る(2016-17年シーズン終了時)ように、現在は、熊本ヴォルターズでの活動に全身全霊で取り組み、最大限の情熱を注いでいる真っ最中であり、先々の事は具体的には考えていないかもしれない。
プロコーチを目指して研鑽を重ねている時期には、いずれは欧州バスケや、世界の舞台で活躍できるコーチを目標に据えて努力を続けていた。世界を見据え、目の前の仕事に情熱を注ぐ青年コーチの歩みに迫った。
目次
スペイン代表が優勝した2006年世界選手が、保田の運命を決めた大会
Hoy hace diez años que fuimos Campeones del Mundo, Cuéntanos dónde estabas tú ese día de 2006 con #CuandoFuiCampeón pic.twitter.com/RTs2ZwUbSQ
— Planetacb (@planetacb) September 3, 2016
#Efeméride Ocho años del Oro de Saitama http://t.co/CipDEXtQwr #SomosEquipo Revive la final: https://t.co/CN5c5JZR0W pic.twitter.com/7MS2SwIz5p
— SeBaloncesto – FEB (@baloncestofeb) September 3, 2014
1992年バルセロナ五輪をきっかけに巻き起こった空前のバスケットボールブーム。マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンらバスケット史に渾然と輝く偉大なるスーパースターたちが結集したDream teamは世界中で多くのバスケットファンを魅了した。
その22年後の2014年。スペインのもう一つの大都市であり首都であるマドリードで開催されたワールドカップでもアメリカ代表は優勝を成し遂げた。言わずもがな、アメリカは、自他ともに認めるバスケットボール大国である。
だが、そんなアメリカ代表チームにも苦難の時期があった。代表選手は、皆が世界最高峰リーグであるNBAでプレーする選手である。そうであるが故、代表チームとしての活動期間の短さや、代表チームの在り方の問題、チームケミストリーが十分に構築されないことによるによるチームの不調和。
同時に、世界各国のバスケットボールのレベルが上がっていることと合わせ、アメリカはプエルトリコに73対92で敗戦。決勝トーナメントではアルゼンチンに89対91で破れ、辛くも最終戦のリトアニアに勝利。2004年アテネ五輪では3位に沈んだ。続いて2006年に日本で開催された世界選手権でもギリシャ代表95-101で敗戦。アルゼンチンには勝利するものの、3位で大会を終えている。
その時期、世界の頂点に立ったのは2チーム。アテネ五輪の優勝チームはアルゼンチン。そして世界選手権はスペインが優勝した。それぞれスペイン語を公用語とする文化圏である。その他にも、前述のプエルトリコを初め、スペイン語文化圏にはバスケの強豪国が多い。その事が、当時、高校生だった保田の好奇心に火をつけた。
「世界選手権では日本もスペインと対戦しています。スペイン選手の、個人のスキルにバリエーションが多く、柔軟な選手が多いことに強い印象を持ちました。スペインの育成には、日本や、その他の国と、どのような違いがあるのかについて疑問と興味を持ったのを覚えています。また、アテネ五輪で優勝をしたアルゼンチンをはじめ、FIBAランキング上位にスペイン語を公用語とする中南米の国も多いことを知り、スペイン語圏のバスケットの発展を強く感じていました」
全国高校総体を目指す普通の高校生
話を少し戻すと、当時、大阪府立河南高校で全国高校総体を目指す高校生だった。
出身地である富田林市に隣接する羽曳野市には、後に洛南高校、青山学院大学、NBL東芝ブレイブサンダースで数々の栄冠を手に入れる辻直人選手がいた。月刊誌でも写真付きで取り上げられるような地元のスター選手に対抗心を抱きつつも、新入生として、チーム内でのポジション争いに汗を流した。
高校入学当時、府立河南高校では、前年まで同校の体育教師として指導をし、当時は大阪体育協会に赴任されていた方が外部コーチとして週末限定で指導をし、平日は、そのコーチの教え子であり、バスケ理論に熟練した若手コーチが指導をする体制がとられていた。
熱意のある両コーチの的確な理論は’普通の’高校生だった保田には新鮮で、練習中にフォーメーションや理論を忘れぬよう、手のひらにマジックで専門用語を書いて練習に挑むが、汗で濡れて見えなくなったこともあった。
実は、保田は幼少の頃より、父親の影響でモトクロスに打ち込んできた。「人と同じ事をしていてはアカン」。学校体育から離れた競技の世界の中で、とても若い選手が、自身の技術を磨き、オリジナリティを出し、次々に表舞台に巣立っていく姿を見てきた。そういう環境を身近に見て育ったため、自分の独自性をいかに出すかと同時に、自分の独自性を出さないと生きていけない。そういう想いが染みついていた。
その後、2年生に進学するとコーチ陣の体制が変わり自主性を重んじる先生が赴任する。的確な理論を教えてくれるコーチ陣から、「自主性」を重んじた指導者へのバトンタッチ。
理論派のコーチ陣から、自主性を重んじるコーチへの転換。”選手間で”考えなければならない中で、目標達成の為、学んできた知識を組み合わせる。その絶妙なバランスが指導者になった今でも活かされているという。
ありったけの情熱を注ぎこんだ高校バスケットボールでは、総体予選の地区大会、予選5回戦で上宮高校に敗北。高校総体への夢には辿り着かないものの、バスケットボールへの情熱は飽き足らぬまま、進路選択の時期を迎える。
「私の通った高校は公立の進学校(普通科)だったので、春の総体予選で引退するメンバーも半数くらいいるのが常で、夏のウィンターカップ予選まで残るメンバーの多くは試合に出場する主力でした。その夏の大会でもスターティングメンバーはおろか、新入生が多く戦力として戦う中でコートに立ってチームを助けることができなかった悔しさと努力が報われなかったという思いもあったと思います。しかし、僕にとって「ただ単に”バスケットボールをする”ということに努力するだけでは道は切り開けないんだ」ということを思い知らされたことで、努力の仕方の転換期になったような気がします。自分のことをよく知り、なりたい自分を目指す上で必要な努力とはなにか考える契機になりました。」
漠然とした思いの中で方向性が決まったのは2006年9月。世界選手権で優勝を成し遂げたスペイン代表を見て、もともと、スペイン語圏のバスケットボールに興味を抱いていたが、それに同国への想いを強くする。アメリカ代表を破ったギリシャ代表にスペイン代表が一蹴する。その時のビデオは、数えきれないほど見返した。
「ただ単に、バスケットボールをする、ということに努力するだけでは道は切り開けない」全力で取り組んだ高校バスケだからこその学び。「人と同じことをしていてはダメ」という幼少期からの人生訓と共に、受験勉強に励む傍ら、その後の人生について考える時期が続く。
大学進学時には、バスケットボールの競技としての継続と、進むべき方向性を真剣に考え、関西外国語大学外国語学部スペイン語学科へと進学。本格的にスペイン語の勉強が始まる。
関西外国語大学へ。「自分の努力次第ではコートに立って経験できるのでは?」
当時の関西外国語大学は当時2部リーグに所属し、ほとんどがスポーツ推薦で入部するチームであった。強豪校であるが、部員数が少なく、2部リーグという事で自分の努力次第ではコートに立って経験を得るチャンスがある事に可能性を感じていた。
当時、保田と同じ年齢の選手には、現在、熊本ヴォルターズの神原選手とNBDL東京エクセレンスを経て、16-17年シーズンより熊本ヴォルターズに移籍してきた松永選手が2大エースとしてしのぎを削っていた事からもレベルの高さがうかがえる。
入学から1か月を過ぎた頃、実家から2時間かかる大学生活の中、学科の授業に加えて教職授業をオプションで取り、目標にしていた交換留学のため、一定以上の成績を修めなければ留学試験に応募することさえできない厳しい状況で自分のキャパを超えてしまう。
そのままではどれも中途半端に終わり、なにも究めることなく卒業してしまい、バスケットボールからも遠ざかってしまう事を恐れ、悩んだ末に決断したのが、1カ月の休部、そして、退部であった。
進路選択の理由の1つであったバスケットボール競技を続けることを諦め、部活動を辞めるからには、残りの目標である、留学、そして教職免許を獲るという事を達成しなければならない。語学や、学業への決意をさらに強くする。
学業に費やす時間を確保し、スペイン語、英語の勉強を中心に大学での学業の立て直しを図る。軌道に乗ったタイミングで、大阪府のジュニアオールスターなどのコーチングスタッフも務める恩師((2015年3月のジュニアオールスターでは大阪代表をHCとして率いて全国優勝を成し遂げる)の指導する中学校で外部コーチとしてコーチングのキャリアをスタートさせる。コーチという形で勉強することで、選手として復帰できる時期が訪れるまでの期間で、バスケットボールIQを高めることが出来るのではと判断しての選択でもあった。
また、兼ねてから足を運んでみたいと熱望していたスペインへとついに足を踏み入れる。その為の軍資金もアルバイトを通じて貯金してきた。2010年3月、スペイン文化を肌で感じる為、はじめてスペインへと足を踏み入れた。
2010年3月。スペイン南部のグラナダ(Granada)へ
2010年3月、スペイン南部のグラナダへと足を運ぶ。本人にとっても、初めての一人旅であり、初の海外旅行である。KLM(オランダ航空)を使い、マドリードを経由してグラナダへと向かう。この時、他にも当時マドリード・グラナダ・マラガ・バルセローナの4県にも足を運んでいる。スペインの風土や雰囲気を知る事が主たる目的の一つではあったが、やはりバスケットボールは気になる。縁あって、ACBのグラナダ対エストゥディアンテスの試合を見る。
大都市ではない、スペインの一地方都市であるグラナダの生観戦を通じ、強烈なインパクトを抱く。本人の言葉を借りれば「真のホーム&アウェイの空気を感じた」との事である。同時に「あのような場所でプレーをする選手、指導をするコーチ、関わるスタッフに強い魅力と憧れを感じた」のだという。おぼろげながらも、まだ20歳の保田の夢が芽生えはじめた瞬間であった。
また、同時に、両チームの洗練された技術の高さにも今でも鮮明に覚えているという。ミスらしいミスは少なく、ほとんど全ての攻撃機会が両チームともにシュートで終わっていたと記憶している。非常に美しい試合だったことが想像できる。
(余談ではあるが、この時のグラナダのHCは、Trifon Pochであり、2014-15シーズンにNBL三菱電機で指揮を取ったHCであった。NBLで対戦する際に、当時の記憶などをあいさつの中で話をする機会もあったようだ)。
このように、スペインの地で印象的な体験を積み重ね、さらにスペインへの思いを募らせ、日本へと帰国をする。学業に打ち込み、恩師の元でコーチングを学び、自身の経験値を高める。アルバイトで渡西資金を蓄える。足元をしっかりと固めながら、一日一日を過ごしていった。
La @DemenciaEstu recibió así al equipo pic.twitter.com/05vlhZ4Jlh
— Movistar Estudiantes (@ClubEstudiantes) April 30, 2018
※エルトラックのスペインツアーでコーチも来日したことのあり、エスティアンデスのホームゲームの様子。熱狂的なファンが支えていることが伺える。
Toda la suerte Fernando y Enric en BasketWorldTour. Gracias por venir a Nagoya!! Próxima parada Lituania.Buen viaje.
pic.twitter.com/jBLpRUPOsh— Trifón Poch Lopez (@trifonpoch) February 1, 2015
メリークリスマス Merikurisumasu @trifonpoch pic.twitter.com/2XvDZ8pZxG
— Gerard Darnes (@Gerard_Darnes) December 25, 2014
※Trifon Pochコーチ。名古屋ダイヤモンドドルフィンズのHC時代。スペインのバスケット媒体の方々も来日し、インタビューを実施。現地のメディアにも取り上げられた。
2011年夏。再び、スペインへ。行き先はサラマンカ(Salamanca)
翌年、2011年夏、「スペインでバスケットボールを学ぶという明確な目的」を持ち、再び、スペインへと足を踏み入れる。日本国内時代にアルバイトで稼いだ貯金と、そして、両親からの資金援助とを軍資金として実現した。
勿論、ただ単にお金を援助してもらうのではなく、今後の展望や、目標を語り、相談を重ねた末に援助をして頂ける事となる。この年の秋、翌夏から派遣される交換留学生の選考テストを控えていたこともあり、そのテストへ合格すれば返済義務は無し、不合格であれば必ず返済をするように、という条件付きだ。
約1か月間、スペイン西部のSalamanca(サマランカ)という学生都市へと行くことを決める。実は、この時点では、具体的な目的は持っていたものの、バスケットボール関係者のコネクションがあるわけではなく、現地でバスケットボール関係者に会おうと計画をして情報収集を進めていた。
また、2回目の渡西を控え、スペインスポーツ事情に最も詳しい教授に様々な観点から相談をし、今後の方向性をさらに具体的に模索しようとしてきた。「いつか、選手に復帰できた際に、バスケットボールIQが高まっているとプラスになる・・」という期待や展望も、コーチングの活動をスタートした動機の1つであった。しかし、「選手としてやっていけるほどスペインのバスケットボールは甘くない!」と一刀両断される。スポーツ事情に詳しい教授からの指摘であったために、いつか選手に復帰した際に抱いていた様々な構想を砕かれることとなり、大きなショックを受けた。
だが、その後、「でもコーチとしてなら可能性がなくはない・・」という一言を添えられた。この時が選手の道を諦め、コーチを生涯続けていくことを決断した瞬間でもあった。
決断をしてからは、さらに準備へも熱が入り、行動を続ける。スペイン語のさらなるブラッシュアップを図り、日本で学んできたことを駆使して、スペインのバスケットボール関係者に積極的にコミュニケーションを図る。無謀にも見えるが、コーチとして生涯続けていく事を決意し、「プロバスケットボールチームで勉強するねん!」と周囲に自慢げに言ってしまっていたことも有り、後戻りも出来ない状況もあったようだ。
実際にサラマンカへと渡西後、現地では、授業を受ける傍ら、空いた時間を利用し、現地の子供、青年、留学生とバスケットボールに興じる中で、バスケット関係者との出会いや、チャンスを求めて情報収集に努める日々が続く。そして、ストリートでのロビー活動とでも表現しても良いかもしれない、このような地道な行動が実り、ここで、今後の人生に大きな影響を与える出来事が訪れる。
Real Madridのオフィスを訪問
ある日、サマランカから東へ100kmほどにあるMadridへと行く機会が訪れ、そこで、保田の脳裏にあるアイデアが宿る。Madridといえば、サッカーでは世界的な強豪であるReal Madridのある大都市。そして、そこにはNBAにも選手を輩出してきた同チームのバスケットボールチームもある。保田は、バスケットボール部門のオフィスの住所を調べ、地下鉄を乗り継ぎ、オフィスを訪ね、扉を叩く。対応をする職員に対して、要望をぶつける。Real Madridの練習を見学させてほしい。応えはNO。「理由は単純。突然に訪問されてきた方に練習を見学させることはできない。Real Madridは世界的な強豪クラブであるため、突然の訪問には対応できない」という事。
残念ながら、練習を見学する旨の希望は聞き入れてくれなかったが、この経験が大きかった。欧州の超強豪チームの関係者と僅かであるが言葉を交わし、交流を持てたことは、彼の好奇心や闘争心に火をつけた。憧れから具体的な目標へ。周囲に公言してしまったから後に戻れないわけではなく、自らの内面が心の底から、この国でバスケットボールを学ぶことを欲している事を強く自覚した。
具体的なコネクションや、道筋が見えないままに1か月間滞在していたスペインであったが、ますます、本格的にスペインのバスケットボールを学びたいという意欲が湧いてくる。
帰国後、日本で試行錯誤の期間を過ごす中で、その半年後、再び、スペインへと渡ることを決意する。
💪🏼🏀 Primer entrenamiento en el Pabellón Ciudad Real Madrid. https://t.co/Qcp6t4SGNN #HalaMadrid pic.twitter.com/jfkCqssCJw
— Real Madrid Basket 🏀 (@RMBaloncesto) 2016年4月27日
レアル・マドリード・バロンセスト新練習施設のお披露目動画 https://t.co/COVDpGxD1X
— とうみん/スペインのバスケ情報 (@el_baloncesto) April 28, 2016
No te pierdas como se hizo la foto oficial del #RMBaloncesto en el nuevo Pabellón. #HalaMadridhttps://t.co/abxsYW2iG5
— Real Madrid Basket 🏀 (@RMBaloncesto) 2016年4月28日
※2016年に公開されたReal Madridの新練習施設。素晴らしい環境の中で練習に取り組んでいる様子が分かる(資料協力:とうみん氏)
この記事の著者
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1982年生まれ。埼玉県草加市出身。株式会社アップセット勤務の傍ら、ゴールドスタンダード・ラボの編集員として活動。クリニックのレポート、記事の執筆・企画・編集を担当する。クリニックなどの企画運営も多く手掛け、EURO Basketball Academy coaching Clinicの事務局も務める。一般社団法人 Next Big Pivot アソシエイトとして、バスケを通して世界を知る!シリーズ 第1回セルビア共和国編では、コーディネーターとして企画運営に携わりモデレーターも務めた。 J SPORTSでB.LEAGUE記事も連載中。
宮城クラブ(埼玉県クラブ連盟所属)ではチーム運営と共に競技に励んでいたが、2016年夏頃に引退。HCに就任。これまで、埼玉県国体予選優勝、関東選抜クラブ選手権準優勝、関東クラブ選手権出場、BONESCUP優勝などの戦績があるが、全国クラブ選手権での優勝を目標に、奮闘中。