『「私はどうしたいのか?どうなりたいのか?」と自分に問いかけてきた』塚本鋼平氏が母校に寄せたメッセージ

B.LEAGUEは3つのミッション「世界に通用する選手やチームの輩出」・「エンターテイメント性の追求」・「夢のアリーナの実現」を掲げ、様々な制度設計やプロジェクトが進行している。近年では、沖縄アリーナを筆頭に各地で「夢のアリーナ」が誕生する機運が高まっている。

近年は、2026年からの新B1構想と共に「NBAに次ぐ世界で2番目の事業規模を持つリーグを目指す」という目標も示された。コロナ禍による観客動員への影響はあるものの、各クラブで事業規模も伸ばしている。実際、B.LEAGUEに所属するトップ選手の年棒では欧州のトップリーグの選手を超えた選手もいるという報道もあった。

また、社会貢献活動B.HOPEを筆頭に、各クラブは地域での存在感を高めている。先日も、Dolphins Smile(ドルフィンズスマイル)という名称と共に『地域への感謝の気持ちとして実施する社会貢献プロジェクト』に取り組む名古屋ダイヤモンドドルフィンズでは、DOLPHINS PORTの開設が発表され、話題を集めた。

さて、GSLでは、大河チェアマンがご自身のSNSでも「「世界に通用する選手やチームの輩出」がBリーグミッションの一丁目一番地。そのためには指導者・審判のレベルアップも合わせて重要。ここを置き去りにした事業の成功などないと思う。」という、第一のミッション「「世界に通用する選手やチームの輩出」と密接な関係性を持つ強化育成部の活動を追いかけている。その中でも、塚本鋼平氏の活動に注目している。GSLにとって、強化育成部といえば、「激しく燃える情熱」の塚本鋼平氏の存在を抜きには語れないのである。

塚本氏は2021年に母校・札幌大学経営学専攻の『経営学専攻へのいざない』に卒業生からのメッセージとして寄稿をされたことがある。今回、札幌大学の協力を得て、同記事の掲載許可を得た。本稿にて、転載をして紹介をする。

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B.LEAGUEの盛り上がり、女子日本代表チームの国際社会での大躍進により、バスケットボールは社会の中で注目を集める存在になり、バスケットボールに関わる仕事を希望する方も増えてきた。スポーツ業界等のセミナーでは、専門性を持つことの重要性も強調されることも多い。スポーツが好きという気持ちに加え、一人一人の専門性があるからこそ、社会の中で自分の役割や居場所を確立していけるという提言である。

まさに、塚本氏は、「経営学」という専門性をコーチとして活動される際に活かされていた。戦術、スキルの分析や分類はもとより、選手とのコミュニケーションやチームビルディングまで多岐に渡る。また、そして現在の役職の中でも活躍されており、その様子は寄稿文の中に詳しい。札幌大学経営学専攻のHPには「経営学を学ぶことは、自らの生活を豊かにする近道。地域や国際社会における経営体の発展に貢献できる人になろう。」とあり、それを体現する存在でもある。

塚本氏は、B.LEAGUEの発足以来、ユースチームのU15・18選手との交流も多い。そのほかにもB.DREAM PROJECT、クリニック活動等で、日本中の若者と接している。また、教員時代の教え子であり、秋田県大館市にて、スポーツマンシップを意識した育成型の私設リーグを企画・運営する美濃山正章さんをはじめ、大人から子供まで交友も幅広い。

GSLでは、札幌大学の学生や、同大学の冊子を手に取った方だけではなく、主に、15歳から20代の若者を中心に、塚本鋼平氏のメッセージをお届けしたいというの希望を持ち、同大学の学務部入試課の畠山誠さんらの協力をいただけた。この場を借りて、改めて御礼を申し上げると共に、下記に寄稿文を掲載いたします。

私はどうしたいのか?どうなりたいのか?

公益社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(B.LEAGUE)
強化育成グループ 塚本 鋼平 Kohei Tsukamoto
経営学部 経営学科(現・経営学専攻) 1999年度卒業
秋田県立鷹巣高等学校出身
札幌大学大学院 経営学研究科経営学専攻 2010年度修了

「私はどうしたいのか?どうなりたいのか?」
今振り返ると、私の大学生活は、この問いに対しての答えを探し続けた4年間だった思う。

1、「バスケットボール」に生きる

私は、秋田県の北に位置する藤里町という人口3,000人ほどの少子高齢化、過疎化が急激に進む、田舎で生まれ育った。しかしこの町には2つの大きな自慢がある。1つは世界自然遺産に登録された「白神山地」があり、世界中から登山客、観光客がたくさん訪れることである。

そしてもう1つは、高校バスケットボール界において全国優勝58回を記録する「秋田県立能代工業高等学校」の初代監督、加藤廣志先生が生まれ育ったことである。バスケットボール漫画の金字塔とも言える『SLAM DUNK(スラムダンク)』において、高校バスケットボール界の頂点に君臨する「秋田県立山王工業高等学校」という学校のモデルとなった。

私が中学生のとき、先輩から後輩へのアドヴァイスということで、加藤廣志先生の「高さへの挑戦」と題した講演を聞いた。秋田の田舎で育った、低身長で“じゃがいも”のような選手たちが、都会で育った高身長でスマートな選手たちをスピードで圧倒し、日本一を勝ち獲る感動のストーリーだ。「平面が立体を制す」という格言が誕生したほどの奇跡に、私も感動しバスケットボールで「高さへの挑戦」をしようと心に固く決めたのである。

2、札幌大学で「経営学」に出会う

13歳の私が受けた衝撃は非常に大きく、能代工業高校という「高さ」へ挑戦できる他の高校に進学し、札幌大学への進学も関東、関西の強豪大学の「高さ」へ挑戦するために決めたのであった。そして当時、札幌大学のバスケットボール部を創部し、海外での豊富な指導経験をお持ちの倉島武徳先生と、日本代表でキャプテンを務めた内海知秀先生への憧れもあり、第一志望として受験し、入学することができた。

当時の札幌大学男子バスケットボール部には、一定の単位を取得しなければ、次年度から活動ができなくなる「文武両道」のルールがあった。北海道の学生大会において優勝し、全国大会に挑戦することが最低目標となっていたため、練習も非常に厳しいものだった。また普通科の高校から進学した私にとって、入学した経営学部で出会う学問は、わからないことが多く、特に1年生の頃は部活動との両立に苦しんだ。

しかし、こうした苦難の日々を、学問に対する不安と曇りを、一気に晴らしてくれたのは、経営学との出会いだった。まずは、フレデリック・テイラーの「科学的管理法」。生産性の向上と労働者の賃金の向上を目指して、労働者の作業研究を行い、公正な仕事量を管理した。それに基づいて働き方を標準化し、労働対価を充実させ、職能別に組織を作った。これがのちに、ヘンリー・フォードがフォード・モーターで採用し、年収の8分の1で買える「T型フォード」を誕生させた。喜劇王チャーリー・チャップリンは、映画「モダンタイムス」の中で、科学的管理法と「フォーディズム」と呼ばれる生産方法を痛烈に批判するが、大量生産、大量消費の「大衆社会」を作ったことは間違いない。

そして、科学的管理法に対抗するようにエルトン・メイヨーの「人間関係論的管理法」が登場する。生産性の向上には、労働者の良好な人間関係や感情、管理者との対話が重要であるとしたのだ。私はこの2つの管理法の発展に心を奪われた。調べれば調べるほど、1900年代初頭に研究された生産性の向上に対する情熱に感動した。そこに登場するのは、チェスター・バーナード。「経営者の役割」という本の中で「自らの組織に共通の目的を与えるのは経営者の役割である」と記した。

2つの管理法で目指した生産性の向上は、労働者をいかにして働かせるかだったが、ここで初めて経営者が自らに矢印を向けたのである。続いてチェスター・バーナードが「共通の目的」と記した部分は、イゴール・アンゾフによって「経営戦略」という言葉の誕生を迎えるのである。現在(As Is)と未来(To Be)をつなぐ方針こそ経営戦略であり、今では当たり前に使われている。こうした学問との出会いは大学を卒業して20年経った今でも私を支えている。

在学中、バスケットボール部では大学の皆様だけではなく、先輩や同期、後輩、OB・OGの方々にも支えてもらい、3年生から主務(マネージャー)となり、札幌市バスケットボール協会、北海道バスケットボール協会に役職をもち、日本公認審判員(B級)の資格取得にも精力的に活動することができた。

4年生のとき、北海道学生バスケットボール連盟の委員長も務め、北海道では最年少での日本公認審判員(B級)の資格を取得した。全国大学選手権(インカレ)への4年連続出場、天皇杯への2回出場は、本当に皆様のおかげだと心から感謝している。またこういった部活が多忙な日々においても、学業においては、恩師の菱村壽夫先生の勧めもあり、専門単位だけではなく、教職課程、社会教育主事の資格も含め、200単位以上を取得した。

前述の通り、いつも「私はどうしたいのか?どうなりたいのか?」という問いを自分に投げかけていた。目前にある「高さ」に挑戦するために選んだ大学であり、どういった状況においても、その「高さ」を超えることがあるべき姿ではないか。何度も自分に言い聞かせながら、歩んだ大学生活だった。

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3、高校教員から札幌大学大学院へ。そして、プロバスケットボールコーチに

大学卒業後は、秋田県で高校の教員を11年間務めた。教科指導においても、部活指導においても大学での学びが根底にあった。生徒にも私が学びによって得た喜びを感じてほしいと、科学的管理法からの発展を何度も振り返った。教え子も数名、札幌大学に進学してくれたこともあり、少しではあるが恩返しができたのではないかと思っている。

2009年4月から2011年3月まで、札幌大学大学院の経営学研究科に進学した。恩師の中本和秀先生と学びの日々は、その後の人生を強く支えている。自ら設定した課題に対して、一切の妥協は許されない。ここで学問に対する厳しい姿勢を身につけることができたと感じている。

その後、当時日本のバスケットボール界においてプロのトップリーグであるNBLに所属する和歌山トライアンズからオファーを受け、念願のプロチームのアシスタントコーチに就任することができた。前年度において準優勝、天皇杯3位という成績だったこともあり、非常に注目された。開幕から3連勝し、首位となり、全ては順風満帆に進んでいると感じていた。

しかし、2015年1月、運営会社は資金難から倒産、チームは突然の解散を宣告された。幸い全国のファンの皆様、和歌山県の皆様からの募金によって、残りの日程を戦うことはできたが、チームはトップリーグから脱退をすることになった。

次のシーズンは兵庫ストークスのアソシエイトコーチに就任したが、シーズン途中で西宮ストークスと名前を変え、経営体制も代わり苦しいシーズンとなった。

この2シーズンを悲しい,苦しいと表現したが,いついかなるときも会場に足を運んでくれて,応援してくれたファンの皆様への感謝を忘れたことはない。ホーム戦の大きな声援に,何度も背中を押してもらったと思っている。応援してくれるファンの皆様のためにも,バスケットボールと正しく向き合い,真摯に歩んでいかなければならないと改めて感じた。

4、「B.LEAGUE」の誕生

実はこの当時,日本のバスケットボール界には大きな問題があった。プロのトップリーグだったNBLの他に,bjリーグというプロリーグが存在していたのである。1国に2つのプロリーグが存在することは,絶対に許されることではなく,早急に2つのリーグが統合しなければ,FIBA(国際バスケットボール連盟)からオリンピック予選など,国際試合のへの出場停止処分が下される状況だった。

史上最大の危機を迎えたのである。残念ながら,この危機を乗り越えることができず,特にオリンピックやアジア大会などで,メダルの可能性があった女子代表の試合に影響が出た。そこでJリーグを誕生させた川淵三郎さんが,日本バスケットボール協会の会長となり2つのリーグを統合させ,B.LEAGUEが誕生したのである。

そのとき私はB.LEAGUEでコーチをしたいと考えていた。しかし,大学生活を支え続けた「私はどうしたいのか?どうなりたいのか?」が,再び私を動かしたのである。「日本はどうあるべきか。私は何をして,どのような世界を作りたいのか。」毎日この問いと向き合い,ついに答えを出した。

私は日本のバスケットボールを世界に通用させたい。そのためには,クラブがいい選手を高いサラリーで獲得するのではなく,自クラブでいい選手を育成して,自クラブで活躍させ,地域の後押しとともに世界に羽ばたかせることが重要であるという結論に辿り着いた。そのとき,数クラブからオファーをいただいたが,全てお断りして,B.LEAGUEで次世代の育成をすることに決めたのである。

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5、「世界に通用する選手やチームの輩出」をするために

2016年7月からB.LEAGUEの強化育成グループに勤務し、各クラブにU15/U18年代の下部チームを作ることが大命題となった。ここでも大学、大学院での学びがいきることになる。当時U15の下部チームは、どこのクラブにもなかった。そこで、2018年4月までに各クラブにU15の下部チームを整えるためには、緻密な「戦略」が必要となり、現在(As Is)と未来(To Be)を明確にして進まなければならない。

サッカー界と大きく違ったところは、バスケットボール界はU15年代において中学校以外のチームが出場する大会も、チームや選手が登録できるシステムもなかったのである。また、もし大会を開催したとしても中学校の部活動に在籍している選手が、突然、各クラブの下部チームに移ってくることは考えられなかった。2017年2月26日に初めて開催した「B.LEAGUE U15 FRIENDLY GAME」では、参加チームが3チームのみとなり、未来に対する不安に押しつぶされそうになったことを覚えている。しかし、そこから各クラブが下部チームを作ること、育成することの大切さを理解し始め、2021年4月には43チームが誕生しようとしている。(※2022年4月には46チーム)

B.LEAGUEの第1のミッションは「世界に通用する選手やチームの輩出」である。そこで、世界中の育成事情についても調べなければならない。特にヨーロッパにおける育成の調査では、大学院で学んだ知識、調査方法を活用することができた。実際に世界大会を見に行くことも重要だと考え、現在、NBAにおいて大活躍をしている八村塁選手が選ばれたU19日本代表の視察のため、エジプトに行った。それからアジア大会、世界大会は必ず視察に行っている。そして選手を育成するために競技環境を構築したり、育成カリキュラムを策定したりするだけではなく、指導者も育成しなければならないと考え、世界ランク4位のオーストラリアと一緒に指導者の育成をしていこうと話したりしている。

 

6、経営学の学びから日本を元気に

日本バスケットボール界全体の合言葉は「バスケで日本を元気に!」である。私たちが日々、努力を怠らないことで、1人でも多くの人を笑顔に!元気に!と信じて仕事をしている。札幌大学で学び、経営学を学び、皆様も多くの人を元気にしてほしい。

最後に皆様も「私はどうしたいのか?どうなりたいのか?」と自身に問うてみてほしい。その結論に曇りがあるのならば、経営学をしっかりと学んでほしい。その学びに感動を覚えることができれば、必ずや明るい未来が待っているだろう。
末筆ながら、皆様が学びを通して、最良の人生を歩むことができるよう心から願っている。

この記事の著者

片岡 秀一ゴールドスタンダード・ラボ特別編集員
1982年生まれ。埼玉県草加市出身。株式会社アップセット勤務の傍ら、ゴールドスタンダード・ラボの編集員として活動。クリニックのレポート、記事の執筆・企画・編集を担当する。クリニックなどの企画運営も多く手掛け、EURO Basketball Academy coaching Clinicの事務局も務める。一般社団法人 Next Big Pivot アソシエイトとして、バスケを通して世界を知る!シリーズ 第1回セルビア共和国編では、コーディネーターとして企画運営に携わりモデレーターも務めた。 J SPORTSでB.LEAGUE記事も連載中。

宮城クラブ(埼玉県クラブ連盟所属)ではチーム運営と共に競技に励んでいたが、2016年夏頃に引退。HCに就任。これまで、埼玉県国体予選優勝、関東選抜クラブ選手権準優勝、関東クラブ選手権出場、BONESCUP優勝などの戦績があるが、全国クラブ選手権での優勝を目標に、奮闘中。