新刊『コービー・ブライアント 失う勇気』前書きを先行公開+読者プレゼントのお知らせ

新刊『コービー・ブライアント 失う勇気』前書きを先行公開+読者プレゼントのお知らせ

2017年10月20日に発売の『コービー・ブライアント 失う勇気 最高の男(ザ・マン)になるためさ!』ローランド・レイゼンビー (著), 大西玲央 (翻訳)|東邦出版をゴールドスタンダード・ラボ読者の方3名へプレゼントいたします。

さて、今回はさらに、本書のまえがき部分を独占入手。発売に先立って公開いたします。

『コービー・ブライアント 失う勇気 最高の男(ザ・マン)になるためさ!』まえがき

最初に会ったときの彼は、楽しむことが大好きな子、という印象だった。もちろん、実際はそうではなかった。コービー・ビーン・ブライアントは、悩んでいることを見せないよう必死だったのだ。

とくに大変だったのが、あのルーキー・シーズンだ。

1996年12月のシャーロット・コロシアム。彼がNBA(ナショナル・バスケットボール・アソシエーション=アメリカのプロバスケットボールリーグ)の選手として初得点をあげたとき、私はそこにいた。

試合後、ロッカールームに飛び込んできた彼は私と、握手からお互いの指をロックさせ引っ張りながら離すという「ソウル・シェイク」を交わした。彼は、私が誰なのかはまったくわかっていなかった。ノートとボイスレコーダーを持ったおじさんという認識だっただろう。それでも、外の世界と対面するのを彼は待ちわびていたのだ。

数カ月後、50回目のNBAオールスター・ウィークエンドで行われるスラムダンクコンテストに出場するまでの空いた時間に、私は彼とふたりきりでクリーブランドのロッカールームに座っていた。

彼は、自分がこれまでNBAに入ってきた中で最も若い世代のイメージキャラクターのような存在になっていることについて話した。その難しさ、要求、危険性、そして18歳という若い選手にとってロサンゼルスに潜む多くの甘い誘惑について語ってくれた。

彼が13歳のときにマジック・ジョンソン(80年代にロサンゼルス・レイカーズに5度の優勝をもたらした名ポイントガード)がHIVに感染していることを表明した出来事が、どれだけ自分に影響したかを話した。マジック・ジョンソンはのちに、年間300〜500人もの女性と寝ていたことを認めたが、そういった誘惑をどのように避けるか、こう教えてくれた。

「僕の場合は単純だよ。人生において成し遂げたいことがたくさんあるんだ」

実際彼は、数分後、このリラックスした談話を終えてロッカールームを去っていくと、エネルギー溢れるパフォーマンスでスラムダンクコンテストを優勝することになる。その優勝は、すでに燃え盛っている彼の野望をさらに大きなものへと膨らませた

翌年、彼は自身が所属するチームであるロサンゼルス・レイカーズでさえ先発していないのに、ファン投票によりオールスター戦のスターティングメンバーとして選出される。その翌年は悲惨だった1999年シーズンで、レイカーズのオーナーであるジェリー・バスは、タレントをそろえているのにもかかわらず、方向性がわからなかったチームの解体を余儀なくされる。

混沌とした3シーズン目、コービーは、行き先を失った、孤独で苛立った22歳の青年だった。彼はNBAのトッププレーヤーになりたいという目標についてこう語った。

「とにかく最高の男になりたいんだ。どうやってそこにたどり着けるのかはわからない。自分で見つけ出さなければ」

当時その目標は途方もないものとされていたが、彼はそれを成し遂げることになる。2016年、彼のキャリアの終焉が近づき、20年間で成し遂げてきた数字を見返して、バスケットボールの偉大な選手たちと「同じテーブルに着く」権利を勝ち取ったと言ってもいいだろう。2015年には、憧れであるマイケル・ジョーダンのキャリア通算得点を抜き去り、カリーム・アブドゥル=ジャバー(70〜80年代にかけてミルウォーキー・バックスとロサンゼルス・レイカーズで活躍した名センター。キャリア通算3万8387得点はいまだ破られていないNBA記録)と、カール・マローン(マイケル・ジョーダンと同じ時代にユタ・ジャズで活躍。「メールマン(=郵便配達員)」の愛称で親しまれた史上屈指のパワーフォワード。初代ドリームチームでもプレーした)に次ぐ、歴代3位まで上り詰めた。それ以上に輝いているのは、コービーがレイカーズを5度優勝に導き、オールスターに18度選出され、オリンピック金メダルを2個獲得したという事実だ。

クリーブランドでのあの夜、まだルーキーだった彼は、どうやって頂点にたどり着けるかはわからないと話していたが、すでにひとつの結論に達していた。彼は、身を粉にしながらそこを目指すのだ。毎晩、全試合、執念深く、容赦なく、身を粉にしてチャレンジに挑み続け、ほかの誰よりも努力できるというその生まれ持った能力で圧倒的な存在になるのだ。

少し身を引きながらも妥協はせず、賢く、自信に溢れるコービーは、同じNBAチームで20年間という前例のない彼のキャリアを通して、アメリカのプロバスケットボール界におけるひとつの「謎」となっていった。バスケットボール史上最も競争心に溢れる選手であることは間違いなく、シーズンを重ねるごとに、徹底的な勉強と準備を惜しまず、周りを圧倒する集中力を持ち合わせた選手という名声が広まっていった。一方、彼の人生は数多くの衝突を生み出すマシーンでもあった。そしてその多くは、バスケットボールというスポーツを支配しようとするその気概の副産物だった。

毎試合、毎日、20年間、ケガや混乱のなか、大切な人間関係が次々と決裂していったが、偉大な選手になるためなら彼はどんな代償だって払うのであった。その過程で彼は、何度も「NBAで最も好き嫌いが分かれる選手」と呼ばれ続けた。プロバスケットボールのファンの中には、彼のことが大嫌いな層と大好きな層が同じくらい存在したのだ。

彼の父であり、元NBA選手でもあるジョー・“ジェリービーン”・ブライアントは、息子を幼少の頃から絶対的な自信を持つように育てた。そしてそれは、彼のトレードマークとしてずっと残っていった。

マイケル・ジョーダンとコービーの両者を長期的に診てきた心理士のジョージ・マンフォードは、コービーが同世代のライバルたちをはるかに凌駕していた特長を、絶対的に揺るぎのない自分に対する自信だと見ており、「彼はほかに類がない、別格な存在だ」と話す。

コービーがこれだけ自信を維持できたのは、それを揺るがしそうなものをすべて排除してきたからだとマンフォードは説明した。「彼は自分がそれ以外の見解を持つことを、かたくなに拒んだんだ」

それによりコービーは、10代でのNBAキャリア序盤、チームメイトやコーチとの衝突、2003年の強姦容疑、両親との衝突、そして仲違いがあった。それは、81得点試合、多くの決勝シュート、MVP級のパフォーマンス、どんな日でも周りを気にせずに大量にシュートを打つ図太さのための動力となったのだ。さらに、キャリア終盤には大ケガから復帰を果たしたように、普通の選手なら負傷者リストに入るような痛みを抱えてもプレーし続けることを選ぶ力の源だった、とマンフォードは説明した。

そしてその自信は、彼のキャリアを語るうえで欠かせないもうひとつの大きな筋書きの原因でもあった。2000年から02年まで3年連続で、共にレイカーズを優勝に導きながらも、良好な状態を維持することができなかったシャキール・オニール(ずば抜けて巨大な体躯を生かしたプレーで活躍し、4度のNBAチャンピオンや2度の得点王など数々のタイトルを獲得した名センター。「シャック」という愛称で親しまれた)との関係性だ。ある意味、コービーが人生のあらゆるフェーズで経験してきた衝突の中でも、シャックとの関係性こそが競争心に駆られた彼の遍歴の頂点となった。

そこでこの本のタイトル『ショーボート』(原書のタイトル)だ。これは、コービーがダンクシュートやゴールに切り込むスキルを見せびらかしたがっていたルーキー時代に、シャックが命名したものだった。

コービーはこのニックネームを非常に嫌っていた。自身を競争心のない人間へと品位を落とすと感じたからだ。同じような批判は、父がプレーしていた頃にも向けられていたものだった。しかし、このニックネームはコービーと父のバスケットボールに対する並外れた愛情と、派手で観客を魅了するようなスタイルでプレーすることを好んでいたことも表していた。

「父がバスケットボールをやっていたので、子供の頃からバスケットボールは自分の血に入っていた」とコービーは説明した。「バスケットボールをプレーするのが大好きだった。ほかのスポーツもプレーしていたけど、バスケットボールほど楽しさを感じることはなかった」

アメリカでのプロキャリアが早期終了してしまい、イタリアリーグで見せびらかすようなプレーをしていた父の活躍を、コービーは幼少期に何時間も見続けていた。

「父の技やカリスマに観客が反応するのを見るのが楽しかった」と、コービーはかつて私に話してくれた。「それと同じような感覚が欲しかったんだ。彼がプレーしているのはとてもクールだったんだ。彼はジェリービーン・ブライアントだったんだよ」

彼のAAU(アマチュア・アスレティック・ユニオン)のコーチだったサム・ラインズも、10代のコービーに似たような情熱を感じていたと話す。

「彼はそれを好んでいたよ。大好物だった。コービーは注目の真ん中にいたい、センターコートにいたいような子だった。彼はそうなるための格好、歩き方、しゃべり方も意識していた。10年生(アメリカの高校は4年制で、小学校から数えて9、10、11、12年にあたる。日本でいうと中3から高3まで)の夏の頃には、もう立派なショーマンだった。人を楽しませることに関してはもう素晴らしいショーマンだったよ

そんなニックネーム「ショーボート」の陰の分身となったのが「ブラック・マンバ」だ。性的暴行告発が明けて、それによって生まれた反感に対抗するためにコービーが自ら付けたニックネームだ。クエンティン・タランティーノの映画にも登場する毒ヘビの名前を自らに冠することで、自分の似たような殺人的な競争心を表そうとした。

キャリア終盤、彼はこの件について、自分の中にある激しい競争性を呼び覚まし受け止めるためのプロセスのひとつだと話した。HBOの番組『リアル・スポーツ』内で、元チームメイトのスティーブ・ナッシュがコービーのことを「とんでもないクソ野郎だ」と話したのを受けて、彼は爆笑していた。

その表現は正しい、と彼は認めたのだ。

気難しく要求の高い競争心の塊のような選手というアイデンティティを受け止めながらも、コービーは苦しい2015-16シーズン中にそのスタンスを和らげた。レイカーズが負け続けるなか、アウェイ戦のたびにリーグ各地のアリーナで彼のサヨナラパーティーが行われているような状態だった。

何はともあれ、2016年4月に行われたコービーのNBA最終戦は、彼のゲームに対する愛情と「ショーボート」の要素が溢れ出る試合となった。ユタ・ジャズを相手に、疲労と戦いながらも次から次へとゴールを決め、コービーは60得点の大活躍でレイカーズを見事な逆転勝利へと導いた。

表面上は、この試合はプレーオフ進出に失敗したふたつのチームが、がっかりするようなシーズンを締めくくる意味のない試合だった。しかしその状況は魔法のように一変し、ロサンゼルスのファンが長年コービーに対して注いできた愛情を祝うような試合へと変貌していった。そして、彼はどんな試合でも魔法を繰り出し観客を楽しませることができることを思い出させた。ロサンゼルスという街でバスケットボールといえばコービー、という時代は長期にわたって続いた。彼の素晴らしいスキルはだいぶ劣化してしまっていたが、それでもどこよりも演劇的な要素を好むこの街で、究極のエンターテイナーとして最も劇的なスタイルで自らの最終章を締めくくったのである。

これから始まるのは「ショーボート」。彼の魅惑的なストーリーを、長年にわたる多くの証言をもとに、いわば訓話のような形でまとめあげるよう試みた。

この本が発行された2016年ではまだ38歳のコービーは、選手としての人生を終えて新たなキャリアへと立ち向かっていく。すでにいくつかのメディア会社を起業しており、バスケットボールのあとは執筆者やプロデューサーとしての人生を目指しているようだ。これから彼がどんな道を選ぼうとも、これからも野心的で、どんな状況も恐れずに積極的に乗り越えていくことは間違いないだろう。

もしそうなったときは、ぜひ彼が、あのシャーロットで初めてビッグショットを決めたときのような形で迎えられることを望んでいる。ソウル・シェイクと、未来を見据えた大きく輝いた瞳で。

2016年8月 ローランド・レイゼンビー

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2017年10月31日(火)

この記事の著者

Gold Standard Lab
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「スポーツコーチングを普及啓蒙し、日本国内におけるコーチングの『ゴールドスタンダード』を構築する」ことが使命。選手や指導者の方に役立つ情報を発信します。