ザ・ゲーム:1992年NCAA東ブロック決勝 デューク大学vsケンタッキー大学

ストーリーNCAA, クリスチャン・レイトナー, グラント・ヒル, ケンタッキー, コーチK, デューク, マーチ・マッドネス, リック・ピティーノ

1992-kentucky-duke

毎年3月に行われるNCAAトーナメントは「マーチ・マッドネス(3月の狂乱)」と呼ばれ、全米を熱狂させる。そのシーズンに好成績をおさめた60数チームが参加し、3週間にわたって熱戦を繰り広げるのだ。一発勝負のトーナメントで、その試合に負けたらそこでシーズン終了と言う緊張感は毎年様々なドラマを生み出してきた。

ランキングが好きなアメリカ人は、よくこの長いNCAAトーナメントの歴史の中でどの試合が一番の試合だったかを議論したりする。その時に必ず候補に挙がり、多くの人がNo.1に推す試合が、ちょうど今から20年前に行われた。

1992年 East Regional Final(東ブロック決勝) デューク大学 対 ケンタッキー大学

テレビやネットでNCAAトーナメントを見たことがある人であれば、必ず一度はこの試合の最後のシーンを目にしているはず。ファイナルフォーなどの中継のオープニング映像の中には必ず含まれる有名なシーンである。しかし、この試合の魅力はそのエンディングだけには留まらない。試合開始から終了までの両チームのプレイ、更にはそのシーズン、NCAAトーナメントに臨む両チームの背景にまで、様々なドラマがあった。

Kentucky: History(ケンタッキー大学:歴史)

ケンタッキー・ワイルドキャッツと言えば、カレッジバスケットボール界屈指の名門。ケンタッキー州レキシントンにキャンパスを置き、SEC(サウス・イースタン・カンファレンス)に所属している。ケンタッキー州は伝統的にバスケットボールが盛んな州で、高校バスケットボールの州大会は大変な盛り上がりを見せる。ケンタッキー州の名前を冠し、同州内最大規模の州立大学であるケンタッキー大学の男子バスケットボールチームは同州のバスケットボール熱の象徴であり、ファンの熱狂ぶりは全米でも類を見ない。その熱狂的なファンに支えられ、チームは常に全米でもトップレベルの強さを誇ってきた。特に一時代を築いたのは1930年代から1960年代までの長きにわたりヘッドコーチをつとめたエイドルフ・ラップ。ラップは42年間のコーチ歴で通算876勝を挙げ、4度のNCAAトーナメント優勝を成し遂げた。どちらも当時のNCAA記録であり、特に通算876勝は1997年にノースカロライナのディーン・スミスに破られるまで長い間に渡ってNCAAの最多勝記録であった。

ラップの引退後、1978年にもNCAAトーナメント優勝。1980年代に入っても優秀な選手を集め好成績を残していたが、1988年、この名門チームをかつてない衝撃が襲う…

Duke: History(デューク大学:歴史)

デューク・ブルーデビルズも強豪ひしめくACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)の名門。ノースカロライナ大学、ノースカロライナ州立大学、ウェイクフォレスト大学など数々の名門チームがあるノースカロライナ州に位置し、近隣の大学と激しいライバル関係を築いていた。チームは1960年代に3度ファイナルフォーに進出、1978年にも決勝に進んでいる。しかし、好成績は残しているがいずれも後一歩の所で優勝には届いていなかった。近隣のライバルチーム、ノースカロライナ、ノースカロライナ州立は何度かNCAAトーナメント優勝を成し遂げ、全米レベルの強豪として君臨していたが、デュークはその後塵を拝していた。

デュークの転機は1980年に訪れる。それまでのヘッドコーチの辞任に伴い、新ヘッドコーチに現在のアメリカ代表チームのヘッドコーチもつとめるマイク・シャシェフスキーが就任したのだ。誰も覚えられない複雑なスペルの名前(Krzyzewski)のため「コーチK」と呼ばれたこの若いコーチは、最初の数年間こそ苦戦したが、その後チームを全米トップへと導いていく…

Duke: On the Rise(デューク大学:躍進)

デュークのヘッドコーチ就任当時からリクルートに力を入れていたコーチKは、1982年にその後チームの核となる好選手を4人獲得。その4人を中心にチームを育て、少しずつ成績を向上させていった。4人が4年生となった1986年には初めてファイナルフォーに進出し、決勝にまで駒を進める。惜しくも決勝で敗れたものの、チームの活躍はリクルートにも影響を与え、優秀な高校生が更に集まるようになる好循環を生んでいた。

その後デュークは1988年、1989年にも2年連続でファイナルフォーに進出。着実に強豪校としての地位を固めつつあったが、毎年のように好成績を残していると周囲は次のステップを期待するようになる。ファイナルフォーの常連となっていたデュークにとっての次のステップとは、すなわち優勝であった。1989年のチームは前年ファイナルフォーに進出したチームから多くの主力が残っており、優勝を期待されていた。しかし、準決勝で試合を優位に進めながらも逆転負けを喫した。「コーチKは良いチームを造るが、大舞台で勝てない」そんな声が聞こえるようになったのはこの頃である。

翌1990年、それまでの主力が抜けて大幅に戦力ダウンと思われたが、インサイドにクリスチャン・レイトナー、ポイントガードにボビー・ハーリーと才能ある下級生を擁し、周りを経験あるベテランで固めたチームは予想外の快進撃を見せた。NCAAトーナメントでも勢いに乗って勝ち上がり、ファイナルフォーに進出。準決勝も勝ち上がり、決勝へと進んだ。しかし、今度こそ優勝との意気込みは決勝の対戦相手、UNLV(ネバダ大学ラスベガス校)によって無残にも打ち砕かれる。運動能力に優れた選手をそろえたUNLVのペースに巻き込まれ、デュークは30点差と言う記録的な大敗を喫した。3年連続のファイナルフォー進出と言うすばらしい記録もこの大敗によって霞んでしまった。

Kentucky: Disaster(ケンタッキー大学:悲劇)

アメリカのカレッジスポーツ、特にアメリカンフットボールと男子バスケットボールは非常に人気があり、試合自体のチケットはもちろん、テレビ放映権やチームのグッズの販売などに絡み巨額の金が動く。チームの成績は大学の収入にダイレクトに影響するため、各大学は優秀な選手の勧誘に躍起になる。ここで問題になるのが、選手のリクルートに関する不正である。リクルート合戦が加熱しすぎないよう、NCAAは勧誘に関して非常に細かいルールを定めており、またそのルールに違反した際の罰則も厳しい。それでもルール違反を犯す大学は後を絶たない。華やかなカレッジスポーツの舞台、そこには常に金に絡む不正の問題がつきまとうのである(※編注:そうした不正問題を扱ったもので、シャックやペニーが出演したことで話題となった映画『ブルーチップス(Blue Chips)』(1994年公開)がある)。

当時のケンタッキーに不正があった事が発覚したのは1988年だった。選手の家族への金銭の授与、入試の不正などの不正がメディアにより報道された。報道後、大学側とNCAAは1年間かけて事実関係の詳細な調査を行う。チームは1988-1989年のシーズンを不正の調査と周囲の雑音にさらされながら戦う事になり、最終成績は13勝19敗。実に62年ぶりとなる負け越しシーズンとなった。

そのシーズンの終了後、調査が完了。NCAAから最終的な処分が下された。細かい罰則は色々あったが、一番インパクトがあったのは2年間のポストシーズン出場禁止であった。ポストシーズン、特にNCAAトーナメントでの成績が成功のバロメータとなるカレッジバスケットボールにおいて、2年間のポストシーズン出場禁止は影響が大きい。選手の多くはチームを見限って他の大学へ転校。それまでケンタッキーにリクルートされていた優秀な高校生たちも他の大学へと進学して行った。熱狂的なファンからは大学に対する非難が集中。長い間カレッジバスケットボールの頂点に君臨していたケンタッキーの栄光は地に落ち、チームはかつてないどん底の状態になったのである。

Duke: Determination(デューク大学:決意)

優勝できないデュークに対してファンやメディアから失望の声は更に大きくなっていたが、失望はコーチKや選手達にとっても同様だった。普通のチームであればファイナルフォー進出は歴史に残る快挙である。しかしデュークにとっての目標はただ1つ、NCAAトーナメント優勝であった。

1991年、この年は前年NCAAトーナメントを制したUNLVが優勝メンバーの殆どを残しており、圧倒的な強さでレギュラーシーズンを全勝で終了。カレッジバスケットボール史上最強のチームとの呼び声も高く、誰もがUNLVがNCAAトーナメントを連覇すると予想していた。デュークはと言うと、レイトナーとハーリーの主力が残り、更にそこに後のNBAスター、グラント・ヒルが1年生として加わり、バランスの良いチームを造っていた。しかし、このチームはそれまでのチームとは違う大きな武器を持っていた。UNLVへのリベンジ、そして優勝へのディターミネーション、「断固たる決意」である。

両チームはファイナルフォーの準決勝で対戦。デュークは巧みにミスマッチを利用して試合のペースをつかむ。運動能力に優るUNLVも反撃するが、デュークのフィジカルかつ泥臭いプレイはUNLVのランニングゲームを封じ込める。試合は最後までもつれたが、終盤に気合いで優り勝負強さを発揮したデュークが2点差で勝利。その勢いで決勝でも勝利し、ついに悲願のNCAAトーナメント優勝を成し遂げた。就任から11年、ついにコーチKはデュークをカレッジバスケットボールの頂点へと導いたのである。

(1991年NCAAトーナメント準決勝 UNLV戦 77-77同点 残り48秒から)

Kentucky: Revive(ケンタッキー大学:名門復活への道のり)

ケンタッキー州の象徴とも言えるチームをどん底の状態にはしておけない。大学側は不正の膿を吐き出し、過去の栄光を取り戻すべくチームの再建に乗り出す。まずは体育局長とチームのヘッドコーチその他のスタッフを解雇し、体制を一新した。新しいヘッドコーチには、当時NBAのニューヨークニックスでヘッドコーチをしていたリック・ピティーノが迎えられた。ピティーノは1988年にプロビデンス大学をファイナルフォーに導き、ニックスでも好成績をあげるなど、実績は十分。若く、カリスマ性もあり、不正のイメージを払拭したかったケンタッキーにとって最適の人材だったのである。ニューヨーク出身のピティーノは地元ニックスのコーチとして成功を収めており、一度はケンタッキーの誘いを断ったが、数回に渡る大学側との話し合いとケンタッキーのキャンパス訪問後、大学側とファンの熱意に心を動かされた。この時ピティーノは38歳、名門ケンタッキーの再建と言う大きな仕事に挑戦することになった。

新しいヘッドコーチを迎えたケンタッキーだったが、NCAAの処分確定後、ロスターからは殆どの主力選手がチームを去ってしまっていた。残ったのは、それまでベンチの端に座っていたようなロールプレイヤーがほとんどで、レベルの高いSECで戦うには明らかに戦力不足だった。しかし、ピティーノは1年目から結果を残すことにこだわり、残されたメンバーで一つでも多くの試合に勝つための準備に取り掛かった。

NCAAの処分確定後に残った選手の中に、リッチー・ファーマー、デロン・フェルドハウス、ジョン・ペルフリー、ショーン・ウッズの4人の新2年生がいた。4人には、ケンタッキーにルーツを持つと言う共通点があった。ウッズ以外の3人はケンタッキー州の出身。物心ついた頃からケンタッキーの青いジャージを着てプレイする事を夢見て育った。ウッズはインディアナポリスで育ったが、母方の実家はレキシントンにあり、彼もワイルドキャッツに触れながら育った。彼らにとっては、ワイルドキャッツの一員である事がすでに夢がかなっている状態であり、チームに対する思い入れは非常に強かったのだ。もう一つの共通点は、高校時代にそれほど高い評価を受けていなかった事である。それぞれ州内では実績を残していたが、全米トップレベルの選手をリクルートするケンタッキーから見ると力不足であった。最終的には、空いていたロスター枠を地元選手でとりあえず埋めるような形でケンタッキーは4人をリクルート。1989年のシーズンもほとんど試合には出ておらず、転校しようにも他の大学からの誘いはなかった。しかし、ピティーノ新体制の元、4人はハードワークと決してあきらめない精神力で名門再建の核となっていくのである。

ピティーノのバスケットボールのスタイルを簡単に表すと、「プレス・ラン・3P」となる。40分間フルコートでプレッシャーをかけ続けて相手のミスを誘い、速攻へと結びつける。オフェンスでは速攻時であってもセット時であってもディフェンスの隙があればいつでも、どのポジションの選手でも3Pシュートを狙う。アップテンポでエキサイティングなバスケがピティーノの身上だった。ただ、このスタイルで40分間戦うには選手個々の体力とそれなりの選手層が必要になってくる。しかし、主力選手の多くが去っていたチームの選手層は薄かった。一般の生徒から募集した選手を加えないと練習で5対5すらできない状態だったのだ。そのため、残った選手には40分間ハイペースで走り続ける事ができる体力が求められた。ピティーノはNFLでトレーナーをやっていた人物をコンディショニング専門のトレーナーとして雇い、ハイペースのバスケットをシーズン通じてプレイできるチーム造りを目指す。シーズン前の体力トレーニングはさながら地獄のようだったと言う。毎朝5時に体育館ではなく陸上のトラックに集合。トラックでスプリントに次ぐスプリント。トレーニングルームに移動して厳しいウェイトトレーニング。誇張ではなく、選手たちは毎日血反吐を吐きながら体をつくりあげていく。しかし、その地獄をくぐり抜けたチームは強靭な体力、精神力を身につけていった。

ピティーノ最初のシーズンとなる1990年、チームは予想以上の成績を残す。能力的にはSECではとても戦えないようなメンバーではあったが夏の間に身に付けた体力でアップテンポのバスケットを展開し、14勝14敗の5割でシーズンを終えた。翌年、ケンタッキーはピティーノの地元ニューヨークから強力な新入生を迎える。後にNBAのスターとなるジャマール・マッシュバーンである。マッシュバーンは6’8’の身長と強烈なパワーに加え、ガードのようなボールハンドリングとシュートレンジをもあわせもち、全米の高校生の中でもトップレベルの評価を受けていた。マッシュバーンの他にも、評価の高いセンター、ジメル・マルティネスを獲得。前年に経験を積んだウッズ、ペルフリーら上級生と能力抜群の新入生がうまくかみ合い、1991年のシーズン、ケンタッキーは22勝6敗と言う好成績をあげた。特にカンファレンス内では14勝4敗、NCAAの処分中だったため、順位は認定されなかったが、SECの最高勝率を残した。ピティーノのチーム再建プランは誰の予想より速いスピードで進み、ついにNCAAトーナメントへの出場が可能になる1992年のシーズンを迎えるのである。

Duke: 1992 season(デューク大学:1992年シーズン)

1967年から1973年にかけてUCLAが7年連続優勝をした後、20年近くの間NCAAトーナメントを2年連続で制したチームはいなかった。1985年のジョージタウン、1991年のUNLVなど、連覇を確実視されたチームもあったが、いずれも番狂わせに沈んでいる。トーナメントの参加チームが増えたこともあり、強豪ひしめくトーナメントを2年連続で勝ち抜くことは昔より格段に難しくなっていた。

前年優勝を成し遂げたデュークは、当然2年連続の優勝をゴールに1992年のシーズンに臨む。前年の優勝チームから殆どの主力メンバーが残り、更に優秀な新入生を加えたデュークの評価は高く、プレシーズンのランキングではダントツの1位であった。否が応でも連覇への期待は高まるのだが、コーチKは「ディフェンディング・チャンピオン」と呼ばれることを嫌った。その言葉通り、チームが守りに入ることを恐れたのだ。「1991年の優勝は既に確定したことで、そのタイトルを奪うことは誰にもできない。我々は既に持っているタイトルを守るのではなく、あらたなタイトルを追い求める。」と事ある毎に語り、チームにもその意識を浸透させていった。選手達も、20年ぶりの2連覇で歴史を作ると言うモチベーションは高く、シーズン開幕から圧倒的な強さで勝ち続けた。

チームは戦力的にも非常に充実していた。レイトナーがこの年4年生、シーズンを通して活躍し、全米最優秀選手に選ばれる。ハーリーが3年生になり安定し、グラント・ヒルは2年生、オールラウンドに活躍した。他にもブライアン・デイビス、トーマス・ヒル、アントニオ・ラングなど優秀なメンバーが揃っており、このチームのメンバーからはロッタリーピック4人を含む合計8人がそれぞれの卒業年にNBAドラフトで指名を受けている。ほとんどのメンバーが前年から残っているだけに経験も十分。シーズン途中でハーリーやグラント・ヒルの怪我があり2敗を喫したものの、シーズンを通じて全米ランキング1位を譲ることはなかった。そして、20年ぶりの2連覇と言う歴史的偉業がかかったNCAAトーナメントにイーストリージョナルの第1シードとして臨むのである。

Kentucky: 1992 season(ケンタッキー大学:1992年シーズン)

NCAAの処分が確定し、チームがどん底の状態だった時、ファーマー、フェルドハウス、ペルフリー、ウッズの4人は新2年生だった。2年間は処分のためにNCAAトーナメントに出場できないが、彼らが4年になる年にはNCAAトーナメントに出場できる、その時を目標に4人はピティーノの地獄のトレーニングに耐え、チームを引っ張ってきたのだ。1991-1992年、4人は4年生になり、ケンタッキーは晴れてNCAAトーナメントへの出場資格を取り戻した。4人にとって最初で最後のNCAAトーナメントを目標としたシーズンが始まろうとしていた。

2年間の経験を積んだ4人の4年生、前年加入したマッシュバーンらが2年生、更に転校生や新入生を何人か加えて戦力が充実したケンタッキーの前評判は高く、どこのプレシーズンランキングでもトップ5に入っていた。州内の熱狂的なファンからの期待も当然のように高まる。チーム練習が解禁となる10月15日に行われたイベントは超満員となった。しかし、高い評価と期待の中ではじまったシーズン序盤、ケンタッキーは思わぬ落とし穴にはまる事になる。

ケンタッキーはこの年、シーズン序盤に行われるプレシーズンNITと言う大会に参加していた。参加チーの中ムには強豪チームもあったが、戦力的にはケンタッキーは優勝候補の筆頭。準決勝と決勝はニューヨーク・ニックスの本拠地マディソン・スクウェア・ガーデンで行われるため、ピティーノの凱旋試合となることが期待されていた。しかし、チームは準決勝を目前に格下のチームにまさかの敗退。シーズン前からの熱狂は水を差された。元々個人能力だけを見れば並以下のメンバーが、鍛えられた体力を活かしたとしたアップテンポのバスケットで勝ってきたチームだ。シーズン前には高い評価を受けていたとはいえ、本来やるべき全力のハッスルプレイができなければ、普通のチームになってしまう。この敗戦は、プレシーズンの高評価と熱狂の中で浮かれていたチームに、そのことを思い出させた。その後、気合いを入れなおしたワイルドキャッツは順調に勝ち星を重ね、SECのレギュラーシーズン、トーナメントを両方制覇。NCAAトーナメントにイーストリージョナルの第2シードで臨むのである。

The Game(ザ・ゲーム)

「ファイナルフォー」はカレッジバスケットボールにおいて大きな意味を持つ。NCAAトーナメントは参加チーム4つのリージョナルに分けて行われる。リージョナルとは、よく「地区」と訳されるが、これは試合が行われる会場の場所がある地区を指し、大学の所在地は関係ない。日本語では「ブロック」と訳すのが一番しっくり来ると思う。NCAAトーナメント全体を見ると、各リージョナルは4分の1のブロックにすぎないが、それぞれのリージョナルもひとつのトーナメントとして捉えられ、リージョナルと勝ち抜いたチームは「リージョナル・チャンピオン」と称される。すなわち、ファイナルフォーに進出するチームは、すでに「チャンピオン」と評価されるのである。ファイナルフォーに進出したチームは、たとえ優勝に手が届かなくても歴史に名を残す。逆にリージョナル決勝まで勝ち上がっても、そこで敗れれば評価はされない。

デュークとケンタッキーはイーストリージョナルのそれぞれ第1、第2シードだった。両チームとも決して楽な勝ち上がりではなかったが、イーストリージョナルの決勝にまで勝ち上がり、ファイナルフォー進出をかけてぶつかる事になった。ケンタッキーにとってこの試合に勝ってファイナルフォーに進出することは大きな意味を持っていた。NCAAの処分明け、はじめてのトーナメントで前年チャンピオンで優勝候補筆頭のデュークを破ってファイナルフォーに進出することは名門復活の大きな象徴となる。そして、ファーマー、フェルドハウス、ペルフリー、ウッズにとって最初で最後のファイナルフォー進出のチャンスでもあった。デュークにとっても、2連覇と言う歴史的偉業への挑戦中、絶対に負けられない試合であった。

前年チャンピオンのデュークと、処分明けはじめてのトーナメント出場のケンタッキーの対戦は注目を集めたが、試合前の予想では、デュークが圧倒的有利と言われていた。ケンタッキーの得意なランニングゲームはデュークも得意としており、走り合いになったとしてもデュークに分があると見られていたのだ。ケンタッキーとしてはデュークに走らせず、自分たちが走れるようゲームをコントロールする必要があった。しかし、経験豊富なデュークに対して主導権を握るのは難しい。試合前はピティーノですら「プレスが効かなければ勝ち目はない」と語っていた。

試合に関しては、私のつたない文章を読むよりも、ぜひ映像で見ていただきたい。

試合はペルフリーの3Pで幕を開けた。ケンタッキーはオールコートプレスとハーフコートになった場合のゾーンをたくみに使い分け、ペースをつかむ。更に得意の3Pが連続して決まり、20-12とスタートダッシュに成功した。リードを奪われたデュークもレイトナーとグラント・ヒルを中心に反撃。ケンタッキーのゾーンに対しインサイドをうまく攻め、得意のリバウンドからの速攻も決まりはじめ、27-22と一気に逆転する。その後はデュークが引き離そうとするとケンタッキーがついて行く展開となる。ケンタッキーはプレスでデュークのターンオーバーを誘う。オフェンスではウッズが果敢な1on1でインサイドに切り込み、他のメンバーに3Pのチャンスを作る。デュークはケンタッキーのプレスに対して何度かターンオーバーを犯すも、プレスを突破するとハーリーを中心とした速攻を決める。ゾーンに対してはインサイドのレイトナーにうまくパスを通し加点。シュートが外れてもグラント・ヒルやラングがオフェンスリバウンドに飛び込み、セカンドチャンスを作る。ハイペースな前半は両チーム点の取り合いとなり、50-45とデュークの5点リードでハーフタイムを迎えた。

デュークの前半のシュート率は72%。ケンタッキーのプレッシャーには多少ミスが出たものの、バランスの良いオフェンスでケンタッキーのゾーンを攻略していた。対するケンタッキーもシュート率は50%と高い。執拗なプレスは要所でデュークのターンオーバーを誘い、速攻からのレイアップにつなげていた。更に前半だけで6本の3Pを決めて粘り強くデュークについてきていた。

後半、デュークが地力の差を見せ始める。サイズと運動能力のアドバンテージを活かし、インサイドを支配。更にケンタッキーのディフェンスがインサイドに寄ると外から3Pを決める。ケンタッキーはインサイドプレイヤーのファウルトラブルが重なり、デュークのインサイドを止められなくなる。特に攻守の要、つなぎ役であるペルフリーが4ファウルとなり、オフェンスも単発になってしまう。ウッズの個人技で粘るが、じわじわと差は広がり、残り11分で67-55と12点差がついていた。そのままデュークが押し切るかに見えたが、一度タイムアウトを取った後、ケンタッキーの反撃がはじまる。

デュークのディフェンスに苦しみながらもバックドアでレイアップを決め、10点差。その後、スチールからマッシュバーンの3Pにつなげ、7点差。たまらずデュークもタイムアウトを取り立て直しを計るが、タイムアウト明けにまたもやスチール、マッシュバーンの3Pで67-63と一気に4点差に詰め寄った。ケンタッキーファンの大歓声で会場内は騒然。得意のプレスと3Pで再びケンタッキーは生き返ったのだ。

デュークも負けてはいない。ハーリーが落ちついて3Pを沈めてケンタッキーの勢いを止める。更にリバウンドからの速攻をバスケットカウントにつなげ、流れを取り戻す。残り7分30秒、ハーリーの速攻で79-69と再び10点にまで差を広げた。

しかし、一度生き返ったケンタッキーはあきらめない。4ファウルのペルフリーがコートに戻り、うまく攻守にわたりバランスを整える。プレスだけではなく、ハーフコートでも粘り強いディフェンスを見せ、オフェンスでは控えのフォワード、デイル・ブラウンとマッシュバーンが得点を重ねる。一気にではなく今度はじわじわと差を詰め、残り5分、ウッズの3Pでついに81-81の同点に追いつく。

残り5分はまさに一進一退。デュークはフリースローを確実に沈め、勝負所でトーマス・ヒルの1on1。ケンタッキーはペルフリー、フェルドハウスの4年生2人が粘る。試合は93-93の同点で延長にもつれ込んだ。

ケンタッキーは後半2度に渡り二桁の点差を追いついた事で完全に勢いに乗っていた。ペルフリーを始め殆どの選手が3回または4回とファウルがかさんでいる中でプレイしていたが、ディフェンスのアグレッシブさはまったく失われておらず、1プレイ毎にデュークに対して自信を深めていた。対するデュークはケンタッキーの勢いに押されながらも、要所で前年のチャンピオンらしい勝負強さを見せていた。延長は両チームの勝利に対する執念の勝負となる。

試合開始時と同様、延長もペルフリーの3Pで幕を開ける。更にペルフリーは次のディフェンスでチャージングを取り、デュークのキャプテン、ブライアン・デイビスを5ファウルに追い込む。デュークはハーリーが3Pを一度外すが、オフェンスリバウンドからのパスを受け、まったく迷わず2度目の3Pを放ち、今度は決める。これで同点。96-96。

ケンタッキーはまたもやペルフリー。インサイドに切れ込み、ディフェンスをかわしてレイアップ。96-98。

デュークはレイトナーがファウルを誘い、フリースローを2本決める。98-98。

延長は残り1分を切る。ここからの攻防も片時も目を離せない展開となる。ケンタッキーはディフェンスを粘り、デュークをショットクロック残り5秒に追い込むが、レイトナーが体制を崩しながらもターンアラウンドを押し込む。100-98。残り30秒

ケンタッキー、延長に入り大車輪の活躍を見せていたペルフリーにマークが集中し、マッシュバーンが空く。ペルフリーからのパスを受けたマッシュバーンはインサイドに切れ込み、バスケットカウント。フリースローも決め、逆転。100-101。残り19秒。

デューク、自陣フリースローライン近辺からハーリーがレイトナーに大胆なロングパス。虚を突かれたケンタッキーはマッシュバーンがレイトナーをファウル。マッシュバーンは5ファウルで退場。レイトナーはフリースローを2本とも決め、再逆転。102-101。残り14秒。

ケンタッキーは自陣までボールを運んだ所でタイムアウト。残り7.8秒。

1点ビハインドの場面でピティーノはセットプレイを指示。ウッズにボールを渡し、スクリーンを利用してドリブルでインサイドに切り込んでディフェンスを崩す。その後は状況に応じてシュートもしくは外で待つ他の選手にパスをすると言うものだった。

タイムアウト中の指示通り、ウッズがボール受け取り、ペルフリーがスクリーンをかける。デュークのスイッチが一瞬遅れたのを見てウッズは自分で決める決意を固める。スイッチしてきたディフェンスは211cmのレイトナーだったが、ウッズのランニングフックショットはレイトナーの手を超え、バンクイン。逆転。102-103。残り2.1秒。

ウッズのシュートは決して確率の高い「良いシュート」ではなかった。「絶対に決める」と言う執念がボールをリングに吸い込ませたとしか思えないシュートだった。5ファウルでベンチにいたマッシュバーンは手を大きく広げて飛び上がる。会場内はケンタッキーのファンの大歓声に包まれる。1点リード。残りはわずか2.1秒。3年前、スキャンダルでどん底に落ちたチーム。そしてそのチームに残り名門復活に向けて地獄の練習をくぐり抜け、チームを引っ張ってきた4年生。NCAA史上に残る番狂わせと名門復活の象徴となるファイナルフォー進出は目の前だった。

ウッズのシュートが決まった瞬間、デュークの選手は揃って審判にタイムアウトのシグナルを送る。当時のNCAAルールでは残り時間にかかわらずシュートが決まった後は時間が流れるため、タイムアウト請求のタイミングが遅れるとその時点で試合終了になってしまうのだ。前のタイムアウトでコーチKはディフェンスの指示と同時に、シュートを決められた場合にはすぐにタイムアウトを請求する事を指示。逆転のシュートを決められながらもデュークの選手はコーチの指示を忘れずにすぐにタイムアウトを取る。結果デュークには2.1秒と言う時間が残されたのだ。

残り2.1秒。わずかに可能性は残されたが、スローインは自陣のエンドラインから。NCAAトーナメント史上20年ぶりの2連覇の夢は風前の灯火だった。しかし、タイムアウトに集まった選手達にコーチKが最初にかけた言葉は「私たちは勝つ。」だった。その言葉を完全に信じるかどうかは別にして、コーチKは逆転にショックを受けている選手達に前向きな気持ちを持たせたのだ。続けて最後のプレイの指示を出す。エンドラインからのスローアーにグラント・ヒルを指名し、ヒルに対してエンドラインからケンタッキー側のフリースローラインまでロングパスを送れるか?とたずねた。ヒルの答えは「Yes」次にレイトナーに対して、ケンタッキー側のエンドラインからフリースローラインまでフラッシュし、ヒルからのパスをキャッチできるか?とたずねた。レイトナーの答えも「Yes」コーチKは単純に指示を出すのではなく、あえてプレイヤーに「〜できるか?と質問していた。ポジティブな答えを引き出すことにより、最後のプレイに対して自信を深めさせる狙いがあったのだ。そしてタイムアウトが終わり、選手それぞれがやる事をしっかり頭にたたき込んで最後のプレイに臨む。

エンドラインからグラント・ヒルのスローイン。スローアーのヒルにディフェンスはついていなかった。代わりに逆エンドラインのレイトナーにマークが2人ついていた。アメリカンフットボールを思わせるロングパスは指示通りケンタッキー陣のフリースローライン付近へ。レイトナーがキャッチでき、ケンタッキーのディフェンスがカットできない絶妙な高さへと飛ぶ。レイトナーは2人のディフェンスにつかれながらもうまくポジションを確保し、ロングパスを見事にキャッチ。着地後、ワンドリブルして右へフェイク。左へターン。シュート。ボールが空中に浮いている間に試合終了のブザーが鳴る。ボールはリングの真ん中に吸い込まれた。

怒号、悲鳴、歓声。

デュークの選手はベンチを飛び出し、我先にとレイトナーに飛びついた。ラングはケンタッキーゴール下でガッツポーズと共に倒れ込み、トーマス・ヒルはでベンチの前で感極まって涙を流した。

ケンタッキーのベンチは茫然自失。何人かの選手は手を交差させ、ノーカウントを主張していた。ウッズは頭を抱えて倒れ込み、ペルフリーはその場に立ち尽くしていた。

(レイトナーが放った「ザ・ショット」)

「まずはケンタッキーの選手達に、素晴らしい努力、執念だったと言いたい。この試合に敗者はいない。たまたまボールを最後に持っていた方が勝つ結果となった。素晴らしいチームに勝てて、我々は本当に運が良かった。」コーチKの試合後のインタビューである。ケンタッキーのファイナルフォー進出は成らなかった。しかし、コーチKの言葉通り、ケンタッキーは敗者ではなかった。前年チャンピオンのデュークに対するケンタッキーの戦いぶりは高く評価された。特に3年間チームを引っ張ってきた4人の4年生のプレイぶりは大きな感動を呼んだ。

翌日、ケンタッキーのチームはレキシントンに戻ったが、何万と言うファンが空港でチームを迎えた。選手達が「試合に負けたのに、この騒ぎはなんだ?」と驚いたくらいである。その数日後、シーズン最後のセレモニーがラップ・アリーナで行われた。アリーナはシーズン開幕時と同じく超満員。ここで大学側は4人の4年生を表彰した。通常は優勝したチームや、オールアメリカなど突出した成績を残した選手が表彰の対象になる。4人の個人成績は平均10点から15点といたって普通で、普通であれば表彰されるレベルではなかった。しかし、大学側は4人の功績を大きく評価していた。チームがスキャンダルで苦しい時にチームに残り、NCAA史上に残る名勝負を演じるまでにチームを引っ張ってきた4人を特別に表彰の対象としたのだ。4人は「Unforgettables(忘れられない4人)」とニックネームを付けられ、彼らの名前と背番号はバナーとなり、ラップアリーナの天井からつるされている。

デュークは翌週のファイナルフォー、準決勝ではコーチKの師匠であるボブ・ナイト率いるインディアナと対戦。前半は苦しんだが後半はペースをつかんで勝利。決勝はスタメン5人が全員1年生、有名な「Fab Five」を擁するミシガンと対戦。この試合も前半は苦しむが、後半突き放して20点差で勝利。見事にNCAAトーナメント史上20年ぶりの2連覇を成し遂げた。シーズンを通してランキング1位を維持し、NCAAトーナメントでも優勝をしたチームはその後出ていない。このチームはカレッジバスケットボール史上でも高い評価を受けている。

コーチKとボブ・ナイトの師弟対決や、Fab Fiveとの対戦など、話題には事欠かないファイナルフォーではあったが、ケンタッキー戦の印象は強すぎた。いまだに1992年のNCAAトーナメントと言えば、デューク対ケンタッキーの試合が一番のハイライトに挙げられる。


ケンタッキーは翌1993年、マッシュバーンをエースとしてファイナルフォーに進出。この年は準決勝で残念ながら敗れた。しかしピティーノは優秀な選手を集め、継続的に強いチームを作り、1996年に遂にNCAAトーナメント優勝。1997年にも決勝まで進出。決勝で敗れた後、ピティーノはNBAボストン・セルティックスのコーチに就任するためチームを去った。

後任は元ピティーノのアシスタントコーチをしていたタビー・スミス。ピティーノが残していったプレイヤーたちをうまくまとめ、就任1年目でいきなり優勝を成し遂げる。この年、ファイナルフォー進出をかけたリージョナルファイナルでデュークと再戦。またもや大接戦となるが、最大18点差をひっくり返し、ケンタッキーはリベンジを果たしている。その勢いでファイナルフォーでも準決勝、決勝と逆転勝ちで優勝したのだ。ピティーノからスミスへコーチは変わったが、1990年代の後半は毎年ベスト8以上、3年連続の決勝進出、そして優勝2回と、NCAAトーナメントで圧倒的な強さを見せた。2000年代に入ってからは強いチームを造るもファイナルフォーに届かず、またコーチ交代により一時低迷。しかし2009年にジョン・カリパリをヘッドコーチに迎えると、再び全米トップレベルの強さを取り戻している。

デュークは翌1993年、NCAAトーナメント2回戦で敗れ、5年続いていたファイナルフォー連続進出の記録がストップした。1994年には再びファイナルフォーに進出して準優勝するが、1995年にコーチKが体調不良でチームを離れた事により失速。翌年コーチKは復帰するが、1990年代後半はなかなかそれまでのような毎年のようにファイナルフォーと言うレベルでは戦えなくなった。しかし、リクルートを立て直して優秀な選手を集め、1999年に準優勝。2001年にはコーチKにとって3回目の優勝を成し遂げた。その後はケンタッキー同様、強いチームを造るも勝ち切れていなかったが、2010年に4回目の優勝。コーチKは優勝回数でエイドルフ・ラップに並んだ。その後も全米トップレベルの強さを保ち続けている。

この試合が行われてから、ちょうど今年で20年(※編注:2012年執筆時)。この20年の間もNCAAトーナメントでは数々の名勝負があった。しかし、いまだにこの試合はNCAAトーナメント史上最高の試合として語り継がれている。両チームの歴史、その年のチームの背景、試合自体のレベルの高さ、そしてドラマチックなエンディングなど様々な要素がこの試合を歴史に刻んでいるのだ。しかし、NCAAトーナメントに出てくるチームにはそれぞれに、それぞれのドラマがある。そのドラマを背負い、シーズンのすべてをかけて戦うトーナメントには、いつでもこのような名勝負が生まれる可能性がある。カレッジバスケに馴染みのない人も、是非一度NCAAトーナメントの試合を見てみて欲しい。現在はCSでかなりの試合が放送されるし、ネットでも視聴が可能である。プレイのレベルではNBAには及ばないが、学生達の熱い戦いがそこにはあるはずだ。

【注記】本稿は2012年にHOOPHYSTERIA( http://hoophysteria.com/ )の会報『BULLETIN』に掲載されたものに修正と補足を加えたものです。転載を快諾して下さった島本和彦さん(@HOOPHYSTERIA)に感謝いたします。

田山 大介
1973年生まれ。中学、高校、大学では選手としてプレイ。高校でアメリカに1年留学した時にNCAAバスケットに魅せられ以来NCAAバスケット特にデューク大学とコーチKのファン。

参考文献
   

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Gold Standard Lab
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「スポーツコーチングを普及啓蒙し、日本国内におけるコーチングの『ゴールドスタンダード』を構築する」ことが使命。選手や指導者の方に役立つ情報を発信します。

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